【短い小説】元気が出るチャーハン

「元気が出るチャーハン」 

 

 大学近くに借りたアパートは築三十年のワンルームで、狭くて古い家だったけれど、僕は気に入っていた。何しろ良かったのはすぐ近くに商店街があることで、安くて美味しいお惣菜屋さんや、さつま揚げの専門店、一人分の刺身を気軽に作ってくれる魚屋さんなど、大好きな店ばかりだった。どの店の人も明るくて優しくて、良いものを安く売りたいという共通の願いを持っていた。大学時代の僕の体は、商店街の人々が支えてくれたと言っても過言ではない。

 そんな商店街の人々の中でも一番お世話になったのは、中華料理店を営む田中のおっちゃんだ。おっちゃんは小柄ではげていて、いかにも人好きのする顔だった。いつも腰が低くて、人助けが好きで、おっちゃんに助けられたことが無い人はあの近所には居ないと思う。倒れた自転車を起こしたり、お年寄りの荷物を運んだり、公園を掃除したりと、店が休みの日も何かしら誰かのために働いているような人だった。

 

 ある時、実家からの仕送りが止まってしまった。父の経営する工場が芳しくないと知ったのはその時だ。僕はすぐにアルバイトを始めたが、バイト代が入るまでは今あるお金で過ごさなくてはならない。商店街の惣菜も高嶺の花になってしまい、毎日安い食パンでしのぐ日々だった。

 ある日のバイト帰り、暗くなった商店街を歩いていた。ずっと先に、ぽつんと明かりが見える。僕は吸い寄せられるようにその光に向かっていった。そこが、おっちゃんがやっている中華料理店だった。赤いのれんの向こうから、油と醤油の香りが漂ってくる。労働後の空腹をラーメンやチャーハンや餃子で満たしたら、どんなに幸福だろうと思った。しかし財布には殆ど金がない。その時の僕にとって、中華料理なんて夢のまた夢だった。

「おい、どうした」

のれんの向こうから、おっちゃんの愛想の良い顔が覗いていた。これが僕とおっちゃんの出会いだ。

「あ、いえ何でもありません」

何だか急に恥ずかしくなり立ち去ろうとすると、おっちゃんはなぜか慌てたように叫んだ。

「なんだあ!そんなに痩せちまって!ちゃんと飯食ってるのか?」

「あの、本当に大丈夫です」

「大丈夫な訳あるかよう。そんな真っ白な顔見せられちゃ、心配でしょうがねえや。今チャーハン作ってやるから、入んな!」

「でも僕、お金持ってなくて」

「金なんかいいから、ほらほら」

僕は半ば無理やり店の中に引っ張りこまれた。店の中は、何とも良い匂いで満ちている。四人掛けのテーブルが二つとカウンターに椅子が五つ。一番奥の椅子にはニッカボッカを履いた男性が座り、ラーメンを啜っていた。僕は遠慮がちに、男性とは反対側の端の席に座った。

「あんちゃん、餃子も食うかい」

「あ、いえ、そんな」

「遠慮すんなって。もう焼いてんだからよ」

おっちゃんは鮮やかな手つきで中華鍋を振るいながら笑った。

「おっちゃん、またお人よししてんのか」

突然ニッカボッカの男が喋ったので、僕はどきりとする。確かに、僕がお腹をすかせていたからといって、無料でごちそうになるなんておかしいのだ。この人だってお腹がすいたからこうして店に来て、代金を払って食事をしているのに。

「お人よしなんかじゃないさ、難しいことはわかんねえけどよ、あれだ、センコートーシってやつだ」

「先行投資?」

「タカシだって、大人になってもこうして時々店に来てくれるだろ。大人になった時に、俺の味を思い出してまた店に来てくれたらそれより嬉しい事はない。そのためならいくらタダ飯食わしたって惜しくないのよ、俺は」

「変わってねえなあ」

ニッカボッカの男はフフッと笑う。

「おっちゃん、金置いとくから後で取って。じゃ、またな」

男が去った後のカウンターには、空になったどんぶりと五千円札があった。なんて粋なんだろうと思った。

「ほい、お待たせ」

目の前に大盛のチャーハンと餃子が置かれると、僕は礼を言うのも忘れて夢中で食べた。その気取らない味付けが旨くて旨くてたまらなかった。おっちゃんの素朴で面倒見の良い性格そのものが、料理に現れているのだと思った。

「ハハハ、そんなに旨いか」

「旨い、旨いです……旨い」

気付くとぽろぽろと涙が零れていた。こんなに人から優しくされたのは、生まれて初めてだった。

「おいおい、泣くほどかい」

おっちゃんはおろおろとティッシュの箱を渡してくれた。涙で濡れたチャーハンを、僕は一粒残さずかきこんだ。あれより旨いチャーハンを、僕はまだ食べたことが無い。

「遠慮せずにまたいつでも来いよ。財布は忘れてこい」

おっちゃんはそう言って僕を見送った。

その帰り道、僕は頭がはっきりと冴え、力が漲るのを感じた。いつもは食パンを食べて、そのままふらふらと眠ってしまうのに、その日はしっかりと大学のレポートを仕上げることが出来た。

 

 それからバイト代が入った日は、おっちゃんの店に行くのが恒例行事になった。おっちゃんは五回に一回くらいしか金を受け取ってくれなかったが、行くと嬉しそうに僕を迎え、頼んでもないものまで出してくれるのだった。

おっちゃんの料理はどれも素朴で旨いのだが、中でもチャーハンは何度食べても絶品で、食べると必ず元気が出た。バイト代が入る前なのに無性に食べたくなる時もあって、それには少し困ったが。

 大事なテストの時や女の子と遊ぶ時、就職の面接の時も、前日の夜はおっちゃんのチャーハンを食べてゲン担ぎをした。全部上手く行った。おっちゃんに礼を言いに行くと、お前の実力だよと言ってまた頼んでもない餃子を出して来るのだった。

 

 おっちゃんの店のことは、大学の友人には黙っていた。タダ飯目的でおっちゃんに近付く奴が増えると困ると思ったからだ。でも、彼女は別だった。とある飲み会で出会った年上の彼女は、真面目で聡明な女性だった。彼女がわざわざタダ飯を食いに行く訳が無かったし、僕は安心しておっちゃんの話をすることができた。

「あーあ、話してたら食べたくなっちゃったよ。今夜行ってみない?」

 僕が彼女を連れて店に行ったら、おっちゃんはきっと驚くだろう。そして、すごく喜んでくれるはずだ。こんなに素敵な彼女がいるんだって、おっちゃんに紹介したい。彼女もきっとあの味を気に入るだろうし、いつか結婚したら、子供も連れて家族で店に行きたい。僕にとっておっちゃんは親以上に親みたいな存在だから、第二の故郷へ里帰りするような感じだろうか。

 しかし僕の想像と裏腹に、彼女の表情は険しかった。

「その店には、もう行かないで」

「えっ、なんで」

「ろくでもない人間よ、その人。どうせ歯がボロボロのジジイでしょ」

 僕は腹が立った。なぜ会ったこともないのにそんな事を言うのか理解できなかった。確かに少しお人よしすぎる所もあるし、歯も所々無いけれど、そんな風にろくでもないとかジジイとか言うのはおかしい。僕にとって、おっちゃんを貶されるのは家族を貶されるのと同じことだった。

 彼女とはそれきり上手くいかなくなって別れてしまった。

 彼女と別れた夜も、おっちゃんのチャーハンを食べた。涙まじりのその味は、初めて食べたチャーハンの味を思い起こさせた。しかし、おっちゃんに慰められながらチャーハンを食べ終えると、帰り道ではすっかり元気を取り戻しているのだから不思議だ。

 

 それからしばらくして、僕は卒業を迎えようとしていた。つまり、この町を離れるのだ。

身の回りの物を段ボールに詰め終わると、無性におっちゃんのチャーハンが食べたくなった。最後の晩餐は、おっちゃんの店だ。ずっとそう決めていた。

「おっちゃん、今までありがとう」

「いいんだ、礼なんて。何が食いたい?何でも好きなだけ作るからよ」

「チャーハンと餃子」

「欲がねえなあ」

おっちゃんは鮮やかな手つきで中華鍋を振るう。出てきたのは、いつもと変わらないあの味だ。最後の日であっても、決して特別な事はしない。いつでもこの場所で、いつもの味を守り続ける。それがおっちゃんの美学なのだろう。

「またいつでも来いよ」

おっちゃんのその笑顔までが、いつもと変わらないのだった。また明日もここに来れるような、そんな気分にさせてくれる。

「お世話になりました」

僕が深くお辞儀をすると、おっちゃんはよせやいと照れくさそうに笑った。

 

 学生時代を過ごした商店街は、すっかり寂れていた。

僕が大学生の時点ですでに高齢化が進んでいた地域でもあったし、跡継ぎがおらず閉めてしまった店も少なくないはずだ。

人もまばらな商店街を歩くと、見慣れた赤いのれんが見えてくる。香ばしい油の匂い。おっちゃんの店はまだやっている。

 大学を卒業した後、最初に入った会社で学んだノウハウを武器にして、気の合う友人たちとベンチャー企業を立ち上げた。事業は成功し、今は都内のタワーマンションに住んでいる。この町で過ごした貧しい日々を、おっちゃんが支えてくれたからこそ得られた成功だ。本当は妻と子供をおっちゃんに見せたかったのだが、そちらの方はまだ上手くいっていない。

僕はのれんをくぐった。あの日見たニッカボッカの男も、こんな気持ちだったのだろうか。

 

 カウンターの中では、おっちゃんが中華鍋を振るっていた。昼時だから客が二人。おっちゃんの店にしては大繁盛だ。

僕は懐かしいカウンターに座り、おっちゃんがこちらを向くのを待った

「へいいらっしゃ……ユウスケか!?」

「うん、おっちゃん、久しぶり」

「大きくなったなあ~!」

おっちゃんは目を細めて笑った。あの頃だって随分大きかったはずだけれど、おっちゃんには、守ってやらなきゃいけない小さな子供に見えていたのだろう。

「おっちゃんのチャーハンがどうしても食べたくなっちゃってさ」

「あー……チャーハンか……」

おっちゃんが珍しく困ったような顔をした。

「実はな、チャーハン用の特別なスパイスがあるんだが、それを切らしちゃってさ。チャーシュー麺はどうだい?」

僕はがっかりした。完全にチャーハンを食べる気でいたので、チャーハンが食べられないと思うと胸を掻きむしりたくなる気分だった。

「スパイスを買ってくるよ。どうしてもチャーハンが食べたいから」

「そうか……」

おっちゃんは少し思案してから、どこかに電話をかけた。

「おう、お店にゃ伝えておいたから、ここに買いに行ってくれるか。金はこのポーチに入ってる」

「了解」

「せっかく来てくれたのに使いっ走りにして悪いな」

「全然いいよ、車だしすぐ戻る」

僕は駐車場に戻り、メモに書いてある住所をカーナビに入力した。

 

 着いたのは、繁華街の真ん中にある雑居ビルだった。怪しげなマッサージ店ばかりが入っている少々不気味なビルだったが、中華食材の専門店というのは、案外こういった所にあるのかもしれない。

しかし、生臭いエレベーターを降りても、そこにはアルミ製のドアが一枚あるだけだった。階を間違えたかと思いメモを確認するが、確かにここで間違いない。僕は恐る恐るドアをノックした。

「あのー、すみません」

中から出てきたのは、目つきの悪い若い男だ。

「誰」

「あ、えっと、この住所ってここで間違いないですか」

「そうだけど、何の用」

「中華料理店のお使いだったんですけど、メモが間違ってるみたいですね、失礼しました」

僕が帰ろうとすると、男が思い出したように言った。

「ああ、あのキチ……田中さんの。さっき電話貰ったよ」

僕は困惑しつつ、招かれるまま部屋に入った。ブラインドが閉め切られた薄暗い部屋にはいくつものパソコンが並んでいる。男は僕にソファを勧め、自分はデスクの椅子に座った。デスクの上には、携帯電話が何台も置かれている。

「えっと、ここは中華食材のお店……なんですか」

「ハア?」

「通販専門とか?」

「何言ってんだ、バカか」

男が苛ついたように僕を見た。

「金は」

僕は慌てておっちゃんに預かったポーチを手に取り、チャックを開けた。そこには一万円札がごっそりと入っていた。

「ひっ」

僕が落としたポーチを男が拾い、勝手に中から札束を取り出して、慣れた手つきで数え始めた。

「ハイ、ちょうどね。じゃあこれ」

男はポーチに何かを入れて僕に寄越した。僕は慌ててその部屋を出て、エレベーターを待つのももどかしく階段を駆け下りた。車に乗って郊外へ出ると、ようやく気分が落ち着いた。

「一体何なんだよ。あんな大金……。何を買ったっていうんだ」

僕は信号待ちでポーチの中身を確かめた。白い粉が入った小袋がぽつんとそこにあった。

 

 おっちゃんの店に戻った時には夕方になっていた。昼と夜の境目のこの時間に、客は一人もいない。

「おうユウスケ、悪い悪い。今チャーハン作ってやるから」

おっちゃんはあの頃と変わらぬ人好きのする笑顔で、いそいそとポーチを持って厨房に入っていく。

「おっちゃん、それ……何?」

「ああ、これはな、チャーハン用の特製スパイスだ。おっちゃんが業者さんとよーく話し合って、食うと元気が出るスパイスを開発したんだよ」

「随分……高いんだね」

「まあなんだ。俺はお客さんがおいしい、元気出たーって笑ってくれるのが好きだからよ。いくら赤字でも材料はしっかり良いモノにこだわりたいんだよ。店の人もいい人だったろ?いつもすごく質の良いスパイスを譲ってくれるんだ」

「おっちゃんそれって、ま……」

「ほい、お待たせ」

僕の前にチャーハンが置かれる。僕は食べたく無かったが、おっちゃんがにこにことこちらを見ているので、仕方なく蓮華を持った。

「なんか懐かしいな。店の前で腹をすかせてた弱々しいお前を思い出すよ。今じゃそんな立派なスーツ着てよぉ……グスッ」

おっちゃんは目頭を押さえた。僕も違う意味で泣きそうだった。

チャーハンが激烈に不味かったのだ。

明らかにおかしな苦味がある。なんだこれ。粉薬を舐めてるみたいだ。

「ユウスケ、今日はやけに水飲むなあ」

「ああ、何か喉乾いちゃって」

「ユウスケ、彼女はできたのか」

「い、いや。アハハ」

「なんだユウスケ、久しぶりに会うからって緊張してんのか」

「まあ、まあね。ハハ、ハハハ」

僕は水でチャーハンを流し込むと、一万円札を十枚、カウンターに置いた。これまでの飲食代をまとめて払おうと決めていたのだが、"手切れ金"という言葉がどうしても頭に浮かんでしまう。

「おっちゃん、じゃ、お金置いとくから」

「金なんていらねーよう」

「いいから。じゃあね」

僕は冴えきった頭を抱えて、泣きながら家に帰った。涙は止まらないが、とても元気だ。今なら何だってできそうな気がする。あの企画も、あの企画も、全部上手くいく。

 そういえば、大学時代の元彼女は駆け出しの刑事で、麻薬捜査を担当していた。おっちゃんが捕まっていない所を見ると、まだ証拠が揃っていないのかもしれない。しかしまさか、客に出す料理に混ぜているとは、警察も把握していないだろう。そんな事をしているのが解れば、とっくに死刑だ。

 腹を空かせていたから解らなかっただろうあの苦味。

 僕は知らぬ間に麻薬中毒になり、そして、無意識のうちに克服していたらしい。引っ越してしばらくはおっちゃんのチャーハンが食べたくて仕方がない日が続いたが、ただのホームシックみたいなものだと思っていた。

 

 それから数年、結婚して子供もできたが、おっちゃんには見せていない。あれ以来おっちゃんの姿を見たのは一度だけ、朝刊の小さな記事の中だ。

 ”悪質な健康食品販売の男から主婦らを救う、近所の名物おじさん”

 商店街の近くで開かれた怪しいセミナーで、「やせる菌を増やす薬」と称したただの小麦粉を高額で売りつけていると聞いたおっちゃんが、会場に乗り込んでいってやめさせたという内容の記事だった。結果的に犯人は捕まって、被害者のお金は戻ってきたらしい。記事には、照れたように笑うおっちゃんの顔写真とコメントが載っていた。

「こういう、偽物を掴ませる外道な商売だけは、俺は許せないんです」